作家評

“支配”を拒む凛然たる美女・いのまる先生

現在、ちょうどエロ漫画新刊発売の谷間となっておりまして、この隙?に進みの悪い同人誌原稿(EroManga Lovers Vol.3用)をやってもよいのですが、今回は久しぶりに作家評を書いてみます。
前回の作家評カテゴリは雨部ヨシキ先生でしたが、約半年ぶりの作家さん特集となりますね。
さて今回は、いのまる先生の作品群について書かせて頂きます。なお、先生の最新単行本『Camellia』(ティーアイネット)のへたレビュー等と併せてご参照いただければと思います。

InomaruWorks1.jpg いのまる先生はティーアイネットの月刊コミックMujinを中心に活躍されている作家さんであり、既刊5冊はいずれも同社レーベルから出版されています。
2007年に発売された初単行本『Indecent』(←参照)以外は、当サイトでは全てレビューしておりますので、読者諸氏にはお馴染みかもしれません。
コミックMujinの誌風が、徐々に(どちらかと言えば陽性な方向に)変化していく中で、ラブコメ系にも凌辱系にも対応できる作家さんであり、短編・中編から1冊フルでの長編までいずれもこなせる力量がある方です。

 いのまる先生の作品を語る上では、初期作から現在まで一貫して“ヒロインの魅力”を活かした作品構築をしており、かつその魅力の“性質”にブレがないという点を考える必要があります。
a85d9f2e.jpgこれまでの単行本のレビューの際、毎回の如く書いてきましたが、黒髪ロングでキリリとした釣り目の強気でクールな美女・美少女というキャラクターデザインは業界屈指の水準を以て、この作家さんの得意とするところ(←参照 長編「華比良生徒会長」第2話, 『いたずら専用 華比良生徒会長』p49, ティーアイネット, 2010)。
強気と言っても、男性を見下したり、サディスティックな欲望を持つといったタイプではなく、“凛とした”という形容がおそらくは最も正しく、その分、「華比良生徒会長」シリーズの会長さんや「絵里子先生」シリーズの女教師さん等、男性に対する“デレ”が光るタイプのヒロインも存在します。
 そういった女性キャラクターが不正や悪徳と対決するという構図を多用するのもこの作家さんの特徴であり、校長の不正・セクハラと華比良会長との闘争が描かれる「華比良生徒会長」シリーズ、義母とその手下に乗っ取られた家庭の中で一人抵抗を続ける少女を描く中編「お義母さんの教育的指導」、そして看守の不当な圧力に対して女囚がその矜持を保ち続けて勝利する中編「女囚つばき」等は、その代表例。
明るいエロコメディや微笑ましい青春ラブコメも描かれる作家さんなのですが、この“対決”の構図の中で、凌辱・調教系統の作劇となることが多くなっています。

 導入パートにおいてヒロインの精神的・身体的な強さを明示した上で、その“強さ”を圧倒的な性的快楽で歪め、屈従させるという展開は凌辱エロでは王道と言えるのですが、いのまる先生のクール美女達はその展開に好適なキャラクター造形と言えます。
このヒロインのキャラクター性の変容における、“落差”がはっきりとしている分、単純な行為の過激性に走らずとも十分な嗜虐性をエロの雰囲気に発生させているのが実用面での一つのアドバンテージ。
InomaruWorks3.jpg 凛とした女性の表情が羞恥や陶酔に染め上げられる様や、拒絶と受容が徐々に逆転していく台詞回しといった、割合に地味なエロ演出をきっちり武器に仕立てており(←参照 中編「お義母さんの教育的指導」第1話, 『Sex education』p19, ティーアイネット, 2009)、無論、結合部描写といったストレートな演出も用いながら、ある意味でヒロインの心身の美しさを損傷させないエロ展開としています。
この心身の魅力を損傷させないという点は重要なポイントであり、後述するように、各作品で凌辱行為に加担する男性側が勝利することはほとんど無く、いかに辱められ、絶望的な状況下に追い込まれようとも、ヒロイン達は矜持を失うことはなく、機を掴んで“逆転”へと転じていくことを可能にしています。
InomaruWorks4.jpg また、女体の美しさをエロ作画の全面に押し出しているのも特に実用面での長所であり、コマぶち抜き絵や2P見開きといったTI勢のお家芸であるダイナミックなエロ作画の中で、しなやかな肢体と重量感たっぷりのロケット巨乳や桃尻を強調する構図を多用しています(←参照 このおっぱい描写の存在感たるや 中編「絵里子先生のお仕事」第1話, 『恥ずかし女』p22, ティーアイネット, 2008)。

 さて、そのような作劇・エロ作画における特長を保ちつつも、初期作から現在にかけて変化している要素は、作中での男性キャラクターが果たす役割です。
端的に言ってしまうと、強気ヒロインの魅力が確然と固まっているのに対し、シナリオの能動的な駆動因としての男性キャラクターの役割は低下する傾向にあります。
InomaruWorks5.jpg 子供である故に愛する女性を権力の鎖から解き放てない主人公が、成長し、彼女を取り戻すことを決意する短編「小夜ノ事」(←参照 『Indecent』p138, ティーアイネット, 2007)や、家庭の経済的苦境もあってストリップ・売春をさせられる少女への想いを貫く少年を描く短編「束縛の館」など、1冊目の短編群ではヒロインと男性主人公が対等な立場になろうと努力する様が描かれています。
2冊目の中心となる「絵里子先生」シリーズに関しても、事故による記憶喪失を悪い男に付け込まれ、悪質な調教を施される状況から彼女を救い出すのは、恋人である少年の役割であり、やや荒っぽい展開ながらも颯爽と登場して絵里子先生を救い出す最終話には爽快さがありました。
 男性主人公の“価値”が著しく低下するのは、3冊目の中編「お義母さんの教育的指導」で顕著であり、家庭に監禁され凌辱されるヒロインに好意を抱く少年が登場するものの、彼は悪役側である義母側の勢力とそれに反抗するヒロイン側の間で翻弄されるに過ぎず、これといって決定的な役割を果たしません。
4冊目の「華比良生徒会長」シリーズにおいては、ヒロインがその“強さ”を保つ精神的拠り所として主人公の少年は存在するものの、彼女の大逆転が描かれる終盤での活躍はかなり限定的ですし、5冊目の中編「女囚さそり」では、女性刑務所という設定上、男性キャラクターはある意味で全てヒロインにとっての敵となっています。
InomaruWorks6.jpg 「華比良生徒会長」シリーズや中編「女囚つばき」では、彼女達自身のプライドや精神的な強靭さ、人を引き付ける魅力によってこそ悪徳への勝利をつかみ取るのであり、かつ自身が行ったことに責任を果たした上で味方となる人物も救い、自身の生き方を取り戻すというヒロイン達の行動を、痺れるようなカッコよさを以て描き出しています(←参照 全校生徒の前で全てを打ち明ける会長 長編「華比良生徒会長」最終話, 『いたずら専用 華比良生徒会長』p203, ティーアイネット, 2010)。
それは、上述した通りに、彼女達の精神が陰湿な快楽調教に決して屈しない強さを保っていたことを高らかに賛美する描き方でもあるでしょう。

 いのまる先生の描く強気美人達は、単に男性の嗜虐欲を引き出すための存在ではなく、胡乱なことを言えば、高嶺に凛と咲く花であり、男を惹き付けてやまない“魔性の女”と言えます。
それは、支配欲・征服欲を甚く喚起させながらも、彼女達をその意志に反して簒奪することは敵わず、彼女達が微笑んだ相手(主人公)にのみ、恋愛感情を以て独占することが許される存在です。
InomaruWorks7.jpg中編「女囚つばき」で、ヒロインへの歪んだ愛と憎を滾らせる看守・八沼がその最たるキャラクターですが(←参照 中編「女囚つばき」第3話, 『Camellia』p76, ティーアイネット, 2011)、彼女達を邪に支配しようとする男性は狂うか、死ぬか、はたまた彼女達の従僕となるかといった末路を迎えます。それは、求めても求め得ぬ女性の“魔性”という側面を強調する描き方と評し得るでしょう。
そして、愛を貫き、不正を正すためならば、自身が傷つくことは勿論、そういった敗れゆく悪漢達に憐憫の情を抱くことなく、凛とあり続けるのがいのまる先生の描く女性キャラクターの大きな魅力とも言えるでしょう。

と、まぁ、主にヒロインのキャラクター性の魅力を中心にこれまでの作品を考察してみましたが、如何だったでしょうか。
現在Mujinで連載中の「学園風俗」は、ヒロインのキャラクター性の魅力はそのままに、男性主人公の能動性という意味では多少路線が違いますし、ヘビィな凌辱系とも異なるテイストなので、6冊目以降も作風は変わっていくと思いますが、これからも釣り目でクールでスレンダー巨乳なヒロインの痴態を楽しませて頂ければと思っております。

いのまる先生とそのファンに愛と敬意を込めて
一エロ漫画愛好家 へどばん拝

理想と現実の平和な挟間で・雨部ヨシキ先生

どうも管理人のへどばんです。今年に入りましてから、早3ヶ月が経とうというのに、単行本レビューだけしか書いておりませんでした。
無論、それはこのブログの基幹ではあるのですが、前回の作家評カテゴリである乙先生特集から1年近く経過しており、流石にここらで新たな作家評を書きたいなと思いました。
ということで、今回は雨部ヨシキ先生の特集とさせて頂きます。なお、先生の最新単行本『ねっ!あったまろ?』(ヒット出版社)のへたレビューもよろしければ併せてご参照下さい。

ArtOfUbe1.jpgArtOfUbe2.jpg雨部ヨシキ先生はヒット出版社のコミック阿吽で活躍されている作家さんであり、既刊5冊はいずれも同社のセラフィンコミックスレーベルから出版されています。
コミック阿吽は、例えばSF(すこしふしぎ)的な要素を加えた、漫画チックな作劇で楽しさを生み出す作品も多い一方で、王道ラブコメ的なストレートに明るいタイプから繊細な感情描写で魅せるタイプまで様々な日常劇も主力の一つとなっています。
このカテゴライズにおいて、雨部先生の作風は完全に後者であり、コミカルさと感情描写の心地よさが両立された日常劇を描き続けている作家さんと言えます。

しばしば、主人公の少年・青年より年上で成人しているお姉さんキャラや、少女と交際している男性教師など、“大人”である登場人物も登場しますが、この日常劇の中で描かれるのは思春期後半の少年少女の恋愛模様です。
ArtOfYoshikiUbe1.jpg作劇面において、ヒロインのキャラ性をその魅力の核とするスタイルは、王道的なラブコメディ系と同等であり、素直になれないツンデレさん(←参照 王道! 短編「乙女心と夏の蒼天」, 『敏感どろっぷす』p73, ヒット出版社, 2006)や天真爛漫なアホ娘、暴走ガールにクーデレさんといったある程度キャッチーなキャラ属性が添加されたヒロイン造形が目立つのは確かでしょう。
とは言え、漫画的なキャラクターのカリカチュアライズはあまり強くないタイプではなく、いわゆる“普通の”少女”、“普通の”少年として描かれている印象が強くあります。
比較的等身高めで、すらっとしなやかな肢体を写実寄りに描く絵柄も、この普通っぽさの印象を高めている感があり、女体の肉感的なエロスを追求するタイプではありません。
ArtOfYoshikiUbe2.jpg無論、そのハイティーンらしい成熟一歩手前の健康的な色香の豊潤さ(←参照 短編「チア❤ハート❤アタック」, 『ねっ!あったまろ?』p21, 同社, 2011)、そして強弱の入り乱れるアナログ作画が生み出すしっとりとした煽情性がエロシーンの魅力を高めているのは間違いない美点ですよ。

さて、話を作劇面に戻しますが、この少年少女のラブ・アフェアの描写において、さしたるドラマ性は認められず、かなり大雑把に言ってしまうと、登場人物達のとぼけた会話とエロシーン、そして恋愛成就のハッピーエンドによってシナリオは形成されています。
一貫して日常劇を描いており、またラスト1コマを必ず小ゴマを用いた微笑ましい描写かギャフンオチでまとめる定番の構成など、このスタイルはかなり強固に維持されていると評せます。
しかしながら、雨部先生の作品に、“単調さ”を全く感じないのは、上述した一見素っ頓狂な台詞回しが、登場人物達にとっては非常に重要な意味を有しており、また何処かすれ違っている様で、ちゃんと意思疎通が図られている故に、二人の恋の幸福が形作られてゆくという流れがしっかりと紡ぎだされているからと考えます。
c86ee33b.jpg作中に登場する男女は、結構“理屈っぽい”部分があり、恋人同士であれ血縁関係であれ、また友人同士であれ、男女の関係に関して彼らなりに有する倫理観や整合性を会話の中で相手に伝えようとしています(←参照 彼女さんを諭す男性 短編「うぉんちゅ」,『だってらぶなの!』p111, ヒット出版社, 2009)。
実は、エロ漫画的なベタな棚ボタ展開を示す作劇も雨部先生の作品には少数存在し、幼少時のテキトーな約束を信じてそれぞれ婦警・看護婦・スチュアーデスとなった女性3人が同時に押し掛けてくる中編「Seasons」や、告白しようとする女の子が自分にリボンをかけて箱に入ってセルフプレゼントな短編「シュガースパイスちょこれーと」(『恋蜜あそーと』収録作)などは、その好例でしょう。
とは言え、そのコッテコテの冒頭展開の勢いを借りてエロへと進むのではなく、これらの作品ですら主人公の男性とヒロインは、なんでそのような状況になったのか、これからどうするのかとった点に関して質疑を繰り返して、一般的に正常な状況へ事態を回復させようと努力します。

03ded701.jpgこの会話の中で形成されていく同意とは何なのかということを考えるにおいて、恋愛の渦中にある登場人物達、特にヒロイン側が他の少女と各種の相談をすることが多いというのは注目すべき点であると個人的に考えています(←参照 短編「シュガースパイスちょこれーと」, 『恋蜜あそーと』p5, 同社, 2005)。
雨部先生の作品において登場頻度が圧倒的に高い、思春期後半の少女達は、恋愛にしろ、セックスにしろ、日常生活の中で(実地での経験はともかく)同年代の同性との会話の中でそれらに関する知識を獲得しており、彼ら彼女らなりに恋愛やセックスの“在るべき姿”を抱いています。
それは倫理観でもあり、また時に身勝手な理想でもあり、世間の常識に対する依存でもあるのですが、作中においてはそれらの“在るべき姿”は登場人物間でズレが生じており、男女いずれかが“ズレ”ている時もあれば、二人とも変な方向へとフラフラ彷徨っている時もあります。
081bd9b2.jpg例えば、デートはお洒落なスポットに行かなければ、エッチはこれこれこういゆう段階を踏んでから、“男らしさ”を発揮してが女性をリードしてあげたい(←参照 短編「テディベア」, 『春色さぷりめんと』p192, 同社, 2008)、自身が性体験が初めてなので相手も初体験であって欲しい、教師と生徒・姉と弟はこういった関係でなかればならない、などといった登場人物達がそれぞれのロジックで有する恋愛における数多の理想・倫理を描き出し、上述した会話を重ねていくことで男女間の、そして同時に二人と世間一般とのズレを認識させていきます。
そして、何より、認識されたその“ズレ”が男女の恋愛感情によって肯定され、抱いていた理想と違っていても彼ら彼女らの恋愛の在り様は何ら“間違ったこと”ではないのだという安堵が作品を非常に心地よいものにしていると僕は思うのです。

上述した様に、標準的なラブコメ要素を含む作風である故に、読み手側もまた一般的な恋愛ストーリーにおける幸福感を期待し易い様に特に作品の序盤は構築されていると感じます。
さりながら、我々読者が期待する“理想化された恋愛の幸福”は、むしろ登場人物達がそこからズレに対して悩み、そしてむしろズレていても良いのだと噛みしめるものであり、結果としてその“理想”を求める読者に、「貴方は貴方のままでいいんだよ」という肯定感を与えてくれると感じるのです。
僕はこれまでの考察記事でも触れてきましたが、恋愛系のエロ漫画作品において、互いの肌や性器を晒し合い、体を接触させる性行為は、肉体と同時に精神を重ね合わせるという全能的なコミュニケーションの理想を象徴する役割を担っています。相手を感じる・相手を受け入れるという行為は肉体的なものだけではなく、その行為に託された感情の伝達をも願うものです。
そして、雨部先生の描くセックスにおいては、読者の興奮を高めるアタックの強い台詞回しを多用しつつも、シナリオパートと同様に互いの認識のズレを埋めていこうとする意志が台詞によって明確に示されています。
cf3557ee.jpg上述した肢体に宿る独特の色香や、雰囲気を殺さない程度にアグレッシブなエロ演出もあって、“使える”エロシーンになっていると同時に、恋愛描写とよく噛み合った性描写であって(←参照 短編「ふたりのせおりぃ」, 『春色さぷりめんと』p25)、登場人物達、そして上述した様に読み手それぞれの在り方を温かく認め合う魅力を大きく高めていると言えるでしょう。

日常劇・普通の少女・等身大の恋愛ストーリーというのは、コテコテの属性やテンプレ展開等との対比として(僕を含めた)評者は安易に使いがちなのですが、それ自体がもはや一種の属性であり、テンプレであることは否めないでしょう。
しかしながら、雨部ヨシキ先生の作品は、そのテンプレとしての日常から一歩外にあること自体がごく当たり前の、個々人にとっての日常なのだという語り回しになっている故に、在り来たりな印象が綺麗に払拭されていると評しえます。
2011年3月現在、我々の“日常”は大きな変化を迎えてしまいました。人によって程度は様々ではありますが、その“落差”は恋愛におけるズレの苦しさよりも何倍も辛いものでしょう。
それでもなお、貴方が今過ごしている日常は尊いものです。
雨部ヨシキ先生の作品のラストが必ず迎える慎ましやかで微笑ましい幸福が、いずれ全ての人に訪れることを祈りまして、今回の記事の筆を置かせて頂きます。

雨部ヨシキ先生とそのファンに愛と敬意を込めて
一エロ漫画愛好家 へどばん拝

エロ漫画界のナックルボーラー・乙先生

ここのところ色々と忙しいこともあって新刊レビューで手一杯ですが、久しぶりに作家さん特集を書いてみます。
今回ご紹介するのは、変幻自在な作風が特徴の乙(もろは)先生です。なお、先生の最新単行本『トラトラトラ』(茜新社)のへたレビューもよろしければご参照下さい。

WorksOfMoroha0.jpgWorksOfMoroha.jpg乙先生はこれまで4冊の単行本を発表されており、1冊目『ぶらっくぱれっと』と2冊目『死神と僕』は共にメディアックスから。3冊目『KEEP OUT』および4冊目『トラトラトラ』は茜新社から出版されています。
コミックPOT(メディアックス:既に休刊)で活躍された後、現在はコミックRinを主戦場としつつ時々メガストア系列でも描いていらっしゃいます。

【不思議な雰囲気と端麗な絵柄】
WorksOfMoroha1.jpgメディアックス時代は名作「死神と僕」シリーズ(『死神と僕』収録作)を筆頭に、各種人外娘や姫騎士、くのいち少女が登場するファンタジー系作品が多かった一方、現在では少年少女の日常劇がメインとなっています(←参照 「はるなつあきふゆ」第2話より:『トラトラトラ』p153より)。
とは言え、独特の叙情性と寂寥感、およびアッパーなコメディ要素が絡みあうユニークな作風と、そのシナリオの転調が生み出す一定の緊迫感がありつつも非常に居心地の良い雰囲気作りが変わらない魅力であり、強いオリジナリティーとして確立されています。
お茶目なコメディからラスト1Pで急激にシリアスな側面に踏み込んできたり、凌辱チックなエロシチュにお馬鹿ギャグを挿入して雰囲気を掻き混ぜたりと、お話が何処に落着するか分からないスタイルは正にナックルボーラーの名がふさわしいでしょう。また、展開の技巧に固執する頭でっかちさやシュールさ・カオスさの押し付けがましさがほとんど感じられず、しんみりとした叙情やチアフルに動き回る少年少女の姿の微笑ましさがスッと心に沁みてくるのが実に素敵。
WorksOfMoroha2.jpgそんな劇中でしっかりとした存在感を放つヒロインさん達は、上述の人外少女を含みつつ、ギリ二桁~ハイティーンまで幅広めですが、基本的にちんまいボディにぺたんこ~膨らみかけのお胸・ツルツルなお股を装備の育ちかけな体型設定が多めです(←参照 寡作ながら褐色肌少女も得意 「Wild&Beat&Rain」より:『ぶらっくぱれっと』p90)。
ことに黒髪ツリ目のクールガールやちょっと生意気盛りな女の子に強い魅力がある作家さんであり、男性、特に思春期ボーイにとって“理解しにくい”存在としての少女像をごくナチュラルにキャラ造形に充填してくるのも作風の魅力を下支えしていると言えるでしょう。
カラー絵にも魅力がありますが、シャープな描線を端麗にまとめた絵柄は陰影の付け方の上手さもあってモノトーンでよく映えるタイプ。個人的にはベンジャミン先生の絵柄が好きならお勧めしやすいと思います。

【ハードコアさを前面に押し出す強烈エロ】
飄々としたシナリオから放たれるセックスシーンは、ラブコメ風味や能天気なファンタジー調に反して以外にも攻撃的であり、少女の肢体を時にねちっこく弄り、時に最奥までゴリゴリと抽送を加える様子を十分な密度とアグレッションを以て描いてきます。
前者に関しては未発達ながら大粒のニップルをクニクニと摘まんだり、着衣の上からワレメを愛撫する様が、後者に関しては女の子の華奢な肢体をがっちりホールドしてピストン運動を繰り出す様が、読み手の征服欲・嗜虐欲を満たしてくれます。羞恥や苦痛の表情や、ラブエロ系としの甘みに乏しい絶叫系のエロ台詞、マッシブな断面図描写といった演出面もそれらの攻撃性を増強
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加えて、拘束凌辱(上図左参照 短編「くノ一捕物帖」:『ぶらっくぱれっと』p51より)やスパンキング(上図右参照 短編「夏休み子供サスペンス劇場」より:『KEEP OUT』p32)、輪姦モノ、アナルセックスや異物挿入、おしっこメインの羞恥系プレイといったやはりサディスティックなエロシチュエーションが多いのも初単行本から続く特徴になっています。余談に近いですが、全ての既刊においてカバー折り込み部右側には、蝋を垂らされた緊縛少女が描かれており、この手のシチュへの愛好ぶりが窺えます。
それでいて作品に陰惨さや悲劇性が存在しないのも面白みの一つであり、上述したお馬鹿ギャグ要素の介入や男女のあけすけな会話のやり取りが、それらの過激な行為が登場人物達の存在や関係性に対する脅威にはなっていません。
加えて、例えば極道のおっさんや盗撮趣味の淫行教師といったいかにもな“悪役”も含め、そういった過激な責めを行う男性陣に憎悪や破壊欲といった負の感情が担わされておらず、誤解を恐れずに言うならば非常に“無邪気”な存在として描かれている印象があります。
勿論、既存の在り様を変化(破壊)させるための明確な凌辱行為も稀にある一方で、ヒロインに苦痛とそれを上塗りする快楽を与える各種行為は、場合によってはヒロインを困らせる悪戯であり、スキンシップの延長であったりと前提となる関係性への信頼に裏打ちされている行為と感じられます。
WorksOfMoroha5.jpg基盤となる登場人物の関係性は、時に兄妹モノを中心とした家族関係であり(←参照 姉と弟の“過ち”の後で 「Hush-a-by...」より:『KEEP OUT』p61)、子供達の不確かながら強固な友情や、人外娘さんとの奇妙な共同生活における妙な信頼関係であったりします。
この作家さんの大きな特徴の一つですが、各作品中において、性交およびそれの与える快楽はそれらの関係性の維持に関して肯定も否定もされていません。

【共に在ることの救いとそこへの希求】
WorksOfMoroha6.jpg苦痛にしろ快楽にしろ、強く演出されるそれらの感覚を作劇上において要請しているのは、各作品に潜められた閉塞感・喪失感ではないかと個人的には考えています(←参照 高校生活の終焉 「RUNNING MY HEART」より:『死神と僕』p108)。
数十ページ内で物語を完結させ、かつセックスシーンを入れることが求められるエロ漫画の短編作においては、登場人物に話を閉じた上でその関係性を紡ぐ文法が一般的であるのは確かです。
ただ、乙先生の作品では何らかの理由によってひきこもりになった文学少女(『トラトラトラ』収録作「空を見上げて」)、妹を亡くして無気力に生き続ける兄(「死神と僕」シリーズ)、おそらくは父親に性的虐待を受けていると思しき少女(『死神と僕』収録作「雨」)など、閉じた人間関係に由来する苦しみや悲しみを背負った人物がしばしば登場します。
彼ら彼女らの悲劇性とその原因をほとんど説明することはない分、人の間にこそある孤独の哀しみが読み手の心に静かに浸透していきます。そして、日常の生の中で居場所や心の拠り所を失ってしまった登場人物を、セックスをするような相手が側に存在するということ自体が閉塞から救済していきます。
WorksOfMoroha7.jpg親さえその孤独に立ち入れないひきこもり少女の部屋に元気よく突入してくる馬鹿でエロ大好きな少年の存在が、死を望んだ少年の元に訪れる死神の少女の存在が、歪められた愛と性を教えられた少女と出会った優しい青年の存在が、彼ら彼女ら自身の生と幸福を取り戻させます(←参照 ポエティックで大好きなラストシーン 短編「雨」より)。
コメディ要素が優先される作品においても、登場人物は互いの内面に深く踏み込むことはないものの、それ故に家族であり友情であり恋愛といった、全ては分かり合えないが心も体も一部を重ねられる関係性に対する全幅の信頼性があるように感じられます。

【セックスの全能性が排された、関係性の負の側面】
関係性に保証される日常の幸福が、セックスによって全てが解決される快楽全能主義と同様に一種のファンタジーではあるでしょう。
“年に1,2回描きたくなる”(『死神と僕』作品解説より)ダーク路線のお話、例えば「鋼鉄少女」シリーズ(『KEEP OUT』収録作)や短編「蝶は夢を見る」は、救済とは真逆に、側にいる人間との関係性によるネガティブな側面を抉り出してきます。
特に「蝶は夢を見る」はそのファンタジーに対する強烈なカウンターパンチであり、妹を庇って事故に会い、車椅子生活を送る兄と、その兄に虐げられる妹の“壊れて”しまった関係性を描きます。
WorksOfMoroha8.jpg性的な虐待が繰り返される劇中、車椅子を押す妹は背後から兄の首に手を伸ばします。その行為に至るまでの絶望を抱えながら、妹は壊れた兄を見捨てることは出来ず、背中から抱きつきます(←参照 『死神と僕』p94より)。
もはや心は通わない関係性は、怨嗟と自罰の共依存として描かれつつ、かつての日常の幸福への懐古をある意味で枷としたものとして哀しく描かれています。

【現実の生の糧としてのファンタジー】
そういった認識を踏まえた上で、乙先生の作品におけるセックスを含んだ共存のファンタジーは無為ではありつつ、決して無意味になっていません。
肉体関係も介した家族の絆も、無邪気な戯れの延長線上にある子供たちの性愛も、“ごめんごめん”で大体大丈夫になってしまう無理矢理エッチも、それ自体は純然たるファンタジーではあります。
WorksOfMoroha9.jpgとは言え、そこに込められた各種の人間関係への祈りに似た信頼と、自分の閉じた世界をこじ開けてくれる無邪気な他者への希望は極めて人間的で普遍的なものでしょう(←参照 “誰かに愛されたい 誰かを愛したい” 「死神と僕」シリーズ第2作「天使と僕」より)。
肉親との愛情さえも時に壊れ、時に歪むことの現実性を示しながら、家族・友情・恋愛といったファンタジーを“信じて”生きる人間のしなやかな打たれ強さが作中には感じ取れます。
現実の感情に基づかないファンタジーが空虚である一方、ファンタジーの入り込む余地の無い現実もまた空虚なものです。
メルヘンチックに、大馬鹿に、哀しく、威勢よくと様々な形式で、人間のファンタジーが絡みあう乙先生の作風は、それ故に現実をこそ生きる読み手の心に不思議で素晴らしい余韻を残してくれるのだと僕は思っています。

個人的には2冊目の『死神と僕』が一番好きですが、なにせ絶版なので、興味をもたれた方は古本を探すか、先ずは茜新社からの近作をご一読されることをお勧めします。乙先生の魅力は近作でも健在ですよ。
長々と書いてしまいましたが、乙先生の描く女の子のお尻は絶品ということを書き添えて筆を置かせて頂きます。

乙先生とそのファンに愛と敬意を込めて
一エロ漫画愛好家 へどばん拝

お姉ちゃんのニオイ・狩野蒼穹先生

どうも、海外渡航中の管理人・へどばんです。ここ数日の記事と同様、当記事も予約投稿なわけですが、新刊大量発売週にレビューが書けなくて管理人は出張先で大層落ち込んでいることでしょう(笑。
まぁ、折角の?機会ですので、時間がある時にしか書けない作家さん特集記事を書いておきたいと思います。
今回は、狩野蒼穹先生のご紹介となります。

WorksOfKarinoSoukyu1.jpg狩野先生は2002年にFOX出版から初単行本『恋するガクセイ』(←参照)を出されて以降、コアマガジン、松文館、オークス、富士美出版から計6冊の単行本を発表されています。
レビュアーとして超駆け出しだった時なので、文章が赤面するほど拙いのですが、2008年に発表された最新の単行本『姉るせっくす』(富士美出版)のレビューもご参照下さい。
現在は姫盗人とペンギンクラブが主戦場となっているようです。

4冊目『弟なんかに感じない!』(オークス)、5冊目『あねSWEET』(松文館)、そして6冊目『姉るせっくす』のタイトルが物語るように、狩野先生は姉弟のほのぼの&エッチな日常を描くことを得意とされています。
3冊目『シスブラ』(コアマガジン)までは兄妹モノや少年少女の恋愛ストーリーなども混在しており、それらはそれらで良質な作品でしたが、近作では姉弟モノに専念している感があります。
WorksOfKarinoSoukyu2.jpg“運命の赤い糸”を見ることのできる姉と彼女と赤い糸でつながっている弟君が登場する連作「あかいいと」シリーズ(←参照 2冊目『お姉ちゃんがいっしょ』(コアマガジン)収録作)や事故死した姉が幽霊として弟と妹の元に留まる風変りな日常を描く中編「あたしが幽霊だったころ」(『姉るせっくす』収録作)などファンタジックな要素が絡むこともありますが、大半の作品は姉弟または兄妹の日常を素朴に描いています。
WorksOfKarinoSoukyu3.jpgシリアスなタイプの作品はあまりなく、温かみと意外性のあるユーモアとふんわりとした姉弟愛・兄妹愛がのんびりと心地よい空間を作り出しています。
また、元々丸みの強い可愛らしい絵柄ですが、コメディパートで頻繁に使用するデフォルメ絵柄の可愛らしさも、作品の楽しく微笑ましい雰囲気の形成に大きく寄与しています(←参照 『姉るせっくす』収録作 短編「ずいぶんもんだけど」より)

主人公の弟君を全て優しく受け止めてくれるような、エロ漫画的にテンプレなキャラ造形のお姉ちゃんは乏しく、毎度珍妙な設定・言動を示す彼女達の姿が妙に人間味があります。
WorksOfKarinoSoukyu4.jpg主にエロ関係で弟に無茶な注文を出してみたり(←参照 『あねSWEET』収録作 短編「笑う姉」より)、滅茶苦茶だらしない性格で弟君に迷惑をかけたりと、全く年長者らしからぬ言動がむしろ可愛らしく映ります。
また、このユニークなお姉ちゃん達に振り回される弟君達が実に素直な性格で、深い愛情の受け皿としてヒロインの魅力を一層高めている感があります。
fc514e24.jpgお姉ちゃんは、ツンデレタイプだったり溺愛タイプだったりおとぼけ天然娘だったりと、表現の仕方こそ様々ですが弟への深い愛情があることはしっかりと描出されており、互いの気持ちに素直になれたラブラブ感で満載の温かいラストシーンが多くの作品で味わえます(←参照 看病してもらった姉 『シスブラ』収録作 短編「カゼに抱かれて」より)。

狩野先生の作品において、特にエロシーンにおいて重要な要素となるのは“臭い”です。
WorksOfKarinoSoukyu6.jpgヒロイン達の、ソックスやブルマなどに染みついた汗の臭いや股間の臭い(←参照 『弟になんか感じない!』収録作 「おねいちゃん計画」後編より)、時に煙草の臭いなどに関して、弟君などの男性側は平然と“クサイよ”と言い放ちます。
例えば岸里さとし先生(旧PN 火野聡司)などが描けば猛烈にフェティッシュでアブノーマルなものとして描かれるそれらの“臭い”の要素は、狩野先生の作品においてはそこから倒錯性や生々しさが排除されています。
この臭い意外にも、性的な能力の欠陥(早漏や不感など)や性的魅力の乏しさ(包茎や貧乳、女性器の締まりが緩いなど)など、ネガティブな要素を遠慮なく言い合える仲であるということを明示することが、姉弟・兄妹としての関係性の強さを強調していると言えるでしょう。
WorksOfKarinoSoukyu7.jpg人間においても匂い・臭いというのは一種のフェロモンなわけで、それが一定の性的興奮の喚起力があるのは確かですが、狩野先生の作品はその臭いが確かにエロイながらも同時にクサイということも強調されます(←参照 『姉るせっくす』収録作 短編「一緒に寝ようよ」より)。
動物の繁殖戦略において、近親交配を回避するメカニズムの一つとして一定水準以上の遺伝子の共有がある個体のフェロモンに性的興奮をしなくなるというケースがありますが、その観点から考えると愛らしい絵柄にも関わらず“クサイ”というネガティブな語感の形容詞を用いるのは、彼ら彼女らが血縁関係である側面をより強調したいからではないかと個人的には考えています。
狩野先生の作品における近親相姦の禁忌の軽やかな超越は、そこで描かれる近親エッチが姉弟・兄妹の関係性を破壊するものでは決してなく、近親関係と家族愛の強化を図るものであるというスタンスによって可能になっていると考えられます。

今回は簡単な紹介記事になってしまいましたが、可愛らしくて個性的なお姉ちゃんとの甘く微笑ましいラブコメディが特に近作においてはたっぷり楽しめますよ。
個人的には、喫煙や体臭、幽体離脱、ブルマー、オナニー大好き娘、そして優しいラブコメディな作劇スタイルなどなど、既存の作品で用いられたネタが凝縮されている感のある6冊目『姉るせっくす』が一番好きですね。

日常と非日常の邂逅・ゼロの者先生

これまで単行本レビューの合間合間に作家さんの特集記事を書いてきましたが、作家評の記事は今回で10回目となります。記事も増えてきましたし、そのうちちゃんとカテゴリとしてまとめたいものです。
さて、管理人が大好きな作家さんは沢山いるのですが、今回はゼロの者先生の特集記事を書いてみます。
いずみコミックスレーベルの大看板な先生ですので、僕程度が取り上げることもなくファンな方は多いと思いますが、より多くの方に興味を持って頂ければへたレビュアーとして真に幸甚。

ゼロの者先生は、タイトルに反して鬼畜ロリ系作品ばかりだった初単行本『お姉ちゃんまにあ』(一水社)以降、常に一水社系列の雑誌で活躍され、これまでに15冊の単行本を発表されています。なお、最新単行本『エロメスのつくり方』(同社刊)のへたレビュー等もよろしければご参照下さい。
作風的には非常に幅広い先生であり、短編「り狩女魔」「鬼畜狂時代」など初期においては猟奇性すら持つ鬼畜系、短編「日かげ」などのカップルさんの恋とエッチを描く日常劇、短編「フラスコなキモチ」「りとる」といった若者のピュアなラブストーリー系、短編「サバト」「サイフカラダ」などの人妻モノなどバラエティ豊かな作劇をそれぞれ高質に仕上げられる力量を持っています。
単行本2冊に渡って禁断の愛のカタチを描いた長編作「わすれな」に代表される兄妹モノを中心に、近親相姦を扱った作品も多いですが、明るい快楽肯定系から快楽の泥沼に沈み込むダーク調の作品まで味付けは様々。
WorksOfZeroNoMono1.jpg触れる手がズブズブと沈み込みそうな程に柔らかく描かれる肢体やグレースケールを多用する粘膜的皮膚描写、その上をじっとり濡らす汗がエロ作画における非常に強い特徴ですが、その表現が最も強調されていたのは7、8冊目となる単行本『全身粘膜少女』『イクまで犯してみる?』の頃であり(←参照 『イクまで犯してみる?』収録作「後日談-後-」より)、近作ではその妖美のエロスの良さを残しつつ、(良くも悪くも)よりバランスの取れた表現に戻っています。
後述する作劇面とこの特徴的な肢体描写が作風として概ね固まったのは意外にも早く、特に作劇面における萌芽は2冊目『ましゅまろおっぱい』に認められ、3冊目『女の子の汁』で作画面も含めて方向性が定まったと個人的には考えています。

【“理解しえないもの”としての異性】
読み手の背筋を凍らせるような鋭さを持つダーク&インモラル系の作品もあれば、男女の想いが通じ合うピュアなラブストーリーまで作品の雰囲気こそ幅広いですが、それらの作品に通じているのが男女問わずに“異性”という存在の理解不能性であり、そのことが独特の寂寥感や妖しさを生み出しています。
WorksOfZeroNoMono2.jpgこの構図の顕著な例は、赤の他人な中年男性を拉致監禁し自分の“優しい父親”としての役割を演じさせる少女を描く短編「優等生」(←参照 『恥液のニオイ』収録作)や、ある理由によって毎日全身に精液を塗りたくって過ごす少女を描く短編「少し異常」などの、心を病んだヒロインを描く作品であり、序盤で示された狂気の手綱を緩めず、話のラストであまりに尋常でない彼女たちのロジックを読者に示し、分かり得ぬ者として描き切ります。
一般的なラブストーリーにおいて、異性の理解不能性の障壁を乗り越えることが恋愛の成就という関係性の構築につながりますが、ゼロの者先生の作品群では、例えラブストーリー系においても、異性は理解しがたい存在として描かれ、その“分からない部分”が生み出す魅力、それへの憧憬、または不信感や恐怖が独特の雰囲気を作り出している感があります。
WorksOfZeroNoMono3.jpgまた、登場人物が複数の関係性においてその外面的な“人格”を使い分ける(分けさせられる)ケースも多く(←参照 2冊目で既に認められるモチーフ 『ましゅまろおっぱい』収録作 短編「-カツラ きゃらくた-」より)、ヒロインであれば、娘や母、妹といった家族の側面と様々な意味での女性としての側面、日常を過ごす“正常な”外面と“狂気”を秘めた内面といった複雑な心の有り様もまた、読者の“神の視点”を持たない“作中の他者”の理解を拒んでいます。
そして、エロ漫画故に性の快楽の観点からの描出が多いですが、他者による容易な理解を阻む故に、他者による肯定もまた拒絶する“自己”は自分ですら制御不能で理解不能なものとして描かれており、他者も自己も理解することのできない不安感が作品の重要な要素と個人的には考えます。
共通理解を可能とする共同幻想、あるいは“大きな物語”を喪失した不明瞭な自己と他者の中で生きる現代人の姿がそこにはあると思うのです。

【自己意識とリンクする部屋という空間】

エロ漫画においてセックスを行う場所というのは様々ですが、露出エッチや青姦を除けば当然室内であり、ホテルにしろ自宅にしろ部屋という閉ざされた空間で行為が描かれることがごく自然なことです。
860d42cf.jpgただ、ゼロの者先生の作品において、閉鎖された空間と登場人物の意識は密接にリンクしており、病のために奥座敷に閉じ込められ“女”としては夫に捨てられた女性が義理の息子の想いを拒絶し、あくまで義母・妻として生きることを選択する短編「六畳一間」(←参照 『キモチいい穴』収録作)において閉ざされる襖、密室に閉じ込められ薬物の大量投与と性的な調教によって理性を失っていく少女を描く短編「窓の中の世界」における次第に遠ざかって行く光溢れる窓、窓越しの不思議な距離感にあった少女を虐めから救いだすために彼女の世界に踏み込むことを部屋に入ることで示す短編「遠距離至近距離」などはその好例と言えるでしょう。
この閉鎖された空間に対し、恋愛モノなどで先生が好んで用いる場は、障子が開かれ、縁側から“外部”が見える、“共用スペース”である畳敷きの居間(短編「日かげ」「あついとヘン」)や家庭のベランダ、前面が開いているバスの停留所小屋といった半閉鎖の空間となっています。
この点で、他者に対する隔壁としての自己意識が部屋の壁として描かれている印象が強く、“部屋”への侵入が自己または他者の意識への侵犯、そして時にその意識に自己が飲み込まれることを意味しています。
WorksOfZeroNoMono5.jpg作中において登場人物の個室はかなり生活感を持ったものとして丁寧に描かれています。登場人物の“日常”を色濃く反映するそれぞれの部屋は、その希釈され拡散した自己意識を密接に関係する、いわばそれぞれの世界です(←参照 『キモチいい穴』収録作 短編「仮想H」より)
しかし、個々人の私的幻想を容易に反映する自己意識は、短編「ソドムの階段」で描かれたような一見均一な外見を持つ無数の“部屋”の中に、分かり得ぬ他者または自己の作り出す狂気の世界が存在することを可能にし、一種の不安感を生み出します。

【非日常と対峙する日常】
ゼロの者先生の作品において、特にインモラル系の作品において登場人物の日常性は不安をもたらす非日常との対峙を要求されます。
542c25e8.jpg最新単行本の『エロメスのつくり方』に収録された短編「誤奉仕なのっ」(←参照)に示されるように、その非日常との対面は凌辱され調教され、その理性や人間性を損傷した少女との出会いとして描かれます。
読者の共感を阻む純粋な悪として描かれる凌辱者によって、単なる異性以上に分かりえない存在と変容させられた彼女達に対する、日常を生きる男性の対応は作品によって様々であり、短編「月が欠ける」のようにその狂気に飲み込まれる者、短編「キャスト」のようにヒロインを拒絶する者、短編「鎖かけの少女」とその後日談な「後日談」前後編のようにヒロインを日常へと救済する者などが描かれます。
「月日の影」前後編はヒロインが主人公によって拒まれる作品であり、複数の男性に凌辱され心を病んだヒロインが偶然再会した幼馴染の男性につきまとい、そのことを気持ち悪いと男性に感じられ、その異常な愛着によって突き放されます。
WorksOfZeroNoMono6.jpgそれは彼女を日常側に留めていた最後の糸が断絶することを意味しており、ラストにおいて“こんな人知らない”と面と向って主人公に言われた少女はその理性を崩壊させます(←参照 最後の台詞が乱れた描き文字になることに注目 『犯りたい気分』収録作「月日の影」後編より)。
この残酷な拒絶は極めて後味の悪い余韻をもたらしますが、ヒロインがなぜ“おかしく”なってしまったかの原因を分からない男性に彼女を理解することを要求するのは難しいでしょう。非日常からの救済を描く上記の「誤奉仕なのっ」はヒロインのあっけらかんとした性奴隷としての存在の告白と仮面の笑顔から漏れ出た悲しみの涙故に可能になったと言え、両作品の男性に人間として大きな落差があるわけではないでしょう。
既に2冊目『ましゅまろおっぱい』収録作の短編「White」で既に認められる非日常と日常の邂逅のモチーフは、必ずしもこのインモラル系だけではなく、恋愛系においてもそうなのですが、分かり得ぬ他者を他者として、非日常の異性を異性として受け止める男性の勇気と決意こそが作中において求められています。

【屈指の名作短編「嘘とウソのオバケ」】
ゼロの者先生の作品の中で管理人が好きなものは数あれど、上述したこの作家さんの個性がフルに活かされ、かつ濃縮された作品として『犯りたい気分』に収録された短編「嘘とウソのオバケ」です。
父親に性的虐待を受け、その心と体を変質させられた少女が父親の下から逃避し、主人公の男性の家に潜り込むことで始まるこの短編は、非日常のヒロインと日常の主人公という上述の構図を有しています。
WorksOfZeroNoMono7.jpg成り行きで幽霊を名乗った少女を受け入れ、奇妙な同棲生活を送ることになった二人が(←参照 “お供え物”のご飯)、互いの心を徐々に通わせていく様を、閉ざされた押入れからヒロインが外に出て、襖越しに会話するようになるという、空間の閉鎖性の緩和を合わせて描く点も上述の意識と部屋のリンクを示しています。
その二人のコミュニケーションにおいて、ヒロインの快楽に蝕まれた精神は主人公の理解しえない異常性として障壁となりえ、そのことをヒロインは恐れ、恥じます。
b9cf0aef.jpgこの作品の素晴らしい点は、主人公がその障壁を軽やかに乗り越え、非日常をまとい、その過去を理解しえないヒロインをありのままに受け止める点であり(←参照)、飾らない当り前の日常が非日常の禍々しさと不安を打ち破る構図そのものと言えるでしょう。
物語のラストにおいて、朝の陽光溢れる縁側においてヒロインが見せる笑顔は、夜の闇を必死に逃走していた冒頭の姿と好対照になっており、実に温かい余韻を残してくれる作品です。
この単行本は、短編「嘘とウソのオバケ」に加え、逆にヒロインを拒絶せざるを得なかった痛烈な悲劇の「月日の影」、狂気に染まったヒロインを禍々しく描く短編「少し異常」、最新単行本で続編が出た「女子能力開発部」など、印象深い作品が多く、特にお勧めな1作です。

長編「わすれな」以降では、あまり暗さのない明朗快活なラブコメ系も描かれており、作風の幅は依然広がっていますので今後も楽しみなベテランの先生ですね。
ストーリーとしての深みもありながら、がっつり使えるエロ漫画をお求めで、もし貴方がゼロの者先生を読んだことがないのでしたら、是非是非チェックして欲しいです。
なんだかよく分からない文章になってしまいましたが、この辺で筆を置こうと思います。

ゼロの者先生とそのファンに愛と敬意を込めて
一エロ漫画愛好家 へどばん拝
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