どうも、当ブログ管理人のへどばんです。酷暑の続く日々でございますが、読者諸氏はいかがお過ごしでしょうか?私は筋トレなどしながら概ね元気に過ごしております。読者諸氏におかれましても、体調に気を付けながらエロ漫画を楽しまれますよう、お祈り申し上げます。

 夏コミC96に参加された方は、大変なコンディションであったと聞いておりますので、お疲れ様でした。
a358c205 管理人は前回に引き続き、サークル“夜話.zip”さんのエロマンガ評論同人誌『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2』に寄稿させて頂き、「寝取られ重要十作解説」というコラム的なものを書いております。私とサークルの編集部さんとで寝取られ作品10冊を選定してそのレビューを書くという内容でして、他の参加者の皆さんの重厚な論考に比して軽佻な文章で、読み比べられると恥ずかしいものですが、まぁ、同人誌という形になっていると物書き冥利に尽きるというものでございます。
 山文京伝先生とひげなむち先生のインタビューも大変興味深いもので、興味のある方は是非購読してみて下さい。コミケ会場でも大変に人気があったと聞いておりますし、通販およぎ電子書籍での販売もされております(以下、販売ページへのリンク)。

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 さて、補遺という訳ではないのですが、10作品のレビューの中では一貫させていた視点について、レビューという形式では上手く伝えられなかったかなぁと思っているので、ここで少しばかり論考を書き足そうと思っております。
 新野安さんや永山薫さんの論考でも触れられているのですが、彼らが読者も含めた“視点の在り方”に重点を置いているのに対し、私はそこにあまり意識を置いておらず(置けておらず)、寝取られ作品としての構造の要素という点で作品の特徴を捉えようとしています。同企画のレビュー中にも単語としては頻出させたのですが、それらについて付け足し的な解説を書いておきます。

①“上げて落す”展開
 寝取られエロが、寝取られる側の男性とヒロインの幸福な関係性が寝取る側の男性によって侵犯されるという構図であり、またヒロインを奪われることでの無力感や絶望感を形成する流れであるため、幸福な関係性の明示(上げて)をしてから、その関係性が破綻・変容させられる展開(落す)での“落差”をどう形成するかが重要な要素になってきます。
 例えば、同人誌の作品解説で取り上げている月野定規先生の『ボクの弥生さん』では、主人公の少年とヒロインの恋愛関係の成立を序盤で丁寧に描き、二人の誠実で幸福な関係性を明確に構築しながら寝取り側の出現で、二人の共有する恋愛関係や住居という空間が次第に侵犯される過程を描き出しており、“上げて落す”展開をじっくりと描いた作品と言えるでしょう。
  寝取られエロは、基本的に既存の恋人や夫婦としての関係性からヒロインを他者に奪われる構図であり、明確な恋愛関係が描かれていない場合は寝取られではないと判断することも可能です。
一方で、“上げて落す”展開という軸から考えると、主人公の男性と明確な恋愛関係にはないが、友達以上恋人未満的な存在が(場合によっては複数)存在する状況は、個人的に“上げる”に相当すると考えています。つまり、恋愛系のエロ漫画作品であればこのまま順当に行けばヒロインとの恋愛関係に設定するだろうと、オーソドックスな展開から読者が自然に判断できる状態から主人公がその可能性を奪われるという流れは寝取られ的であると考えています。同人誌の作品解説で取り上げている中では、夏庵先生の『オトメドリ』などがこれに相当しますが、幼馴染ヒロインやお兄ちゃん大好き系妹など、ラブコメエロ漫画やギャルゲー的な文脈で非常に分かり易いヒロイン“候補”を設定した上で、実はそうではないことを、主人公および読者に叩き付けることで“落す”と考えています。
  恋愛関係について言及しましたが、母親や妹、娘など、家族という“他者”を排した家庭内においてその関係性が幸福に形成されている近親者が他者に奪われるということも、同様であって、特に家という寝取られ側にとっても重要な“空間への侵犯”がエロシチュとして重視されやすいのも“落す”展開における特色です。
  逆に、夫婦としての性愛関係が覚めている、寝取られる側の男性の描写が希薄といった“上げる”展開がないと、彼らは背徳感を盛り上げるスパイス的な存在でしかなく、寝取られ的でなくなると言えるでしょう。

②“すれちがい”展開
 寝取られる側は、当然愛する恋人、妻、家族が他者の凌辱・簒奪を受けていると認識できれば当然それに対処しようとする訳で(する気が無いのであれば寝取られが成立するような関係性ではそもそもないため)、寝取り側に心身を改変されていくヒロインの変容に気が付けない、または対処が不能である状態にする作劇上の措置が必要です。このことを大雑把ですが、“すれちがい”と管理人はまとめて認識しています。
 例えば、山文京伝先生の『蒼月の季節』のように、愛する夫のために他者にその身を差し出すタイプの作劇では、ヒロイン自らが夫に対して調教・凌辱の事実を隠蔽するために、夫側に気が付けない状態を形成します。また、寝取られる側の出張等、空間的にヒロインと隔離されることで変容の認識やそれへの対処が不可能になる展開も頻出します。話の展開から一時的に退場させられるというわけですが、同人誌の作品解説で取り上げている東雲龍『LOVE & HATE』では、凌辱・調教が進展するヒロインの側の話と、引き離された少年が別の場所でまた異なるストーリーとその成長が描かれているのが特徴的で、“すれちがい”展開そのものにオーソドックスなものとは異なるストーリー性を付与した作品と解釈しています。
“すれちがい”展開は、寝取られる側が事態の悪化に対して有効な手立てを打てなかったことへの無力感や後悔を意識させるために必須な要素であり、同時に寝取られる側とヒロインが適切なコミュニケーションを図れれば事態が好転したかもしれないディスコミュニケーションの明示、意志疎通が完全と思っていた関係性の破綻の明示とも言えるでしょう。
 月野定規先生の『ボクの弥生さん』は、この“すれちがい”展開の巧みさが見事で、ヒロインの傍にいて自分たちの空間すら侵食される明らかに異常な状況になっているのに、主人公の少年が認識してしまう自体を恐怖し、拒絶してしまい、事態の悪化を防げない無力感や精神的な弱さを鬱積した上で、最終的にそのことを主人公に自覚させてしまうという強烈な展開を有しています。

③“離脱機会”の提示
 同人誌のレビュー中では“チャンス”の提示と書きましたが、これはヒロイン側が進行する寝取られ調教から離脱したり、関係性の決定的な破綻を招く行為(例えば妊娠の可能性のある射精)を拒否したりできる機会、質問が寝取り側の男性から提示されることを指しています。
 寝取られエロは通例、ヒロイン側の肉体的な変容・簒奪を先行させた上で、その精神的な変容・簒奪を後続させますが、一方的な支配-被支配の関係ではなく、精神の変容の結果としてヒロインが自主的に寝取り側の男性との関係性の継続を望まない限り、寝取られ/寝取りは成立しません。このため、“離脱機会”の提示が敢えて行われた上で、ヒロインが既存の関係性の回復よりも寝取り側との関係性の維持・進展のための選択を自らの意志で行うことが重要となります。
  長編の寝取られ作品では、しばしば寝取り側の攻勢の一時中止が描かれますが、それに安堵しつつも心身が寝取り側を更に求めることでヒロインの強制から自発への変遷を明瞭にする展開になっています。加えて、この“インターバル”は寝取られる側の男性にとってもヒロインを取り戻すチャンスの提示でもあるのですが、にも関わらずヒロインの変容を認識できない、対処ができないためにこの“チャンス”を無為にしてしまうことが、後々に無力感や喪失感として跳ね返ってくることになります。
 短編クラスでは省略されることも多い要素ですが、ゴム付きセックスから生セックスへの移行、初めてのアナルセックスの許可など、プレイ内容の選択としてこの要素は用いられることは多く、実際は好き放題が可能な寝取り側の男性が敢えて可否を“質問”することと、それへのヒロインの応答が引き出されることで、“離脱機会”の喪失を表現しているとも評し得るでしょう。
 また、このカテゴリに入れるかどうかは悩むところでもあるのですが、エロシチュの背徳感を盛り上げる要素としてしばしば用いられる、寝取り側の男性とのセックスの最中における寝取られ側の男性との“通話”(電話のことが多いですが、まれに映像通信のケースも)もこれに類する意味があると思っています。愛する者同士の会話という、状況の打破につながるかもしれないコミュニケーションを、敢えて寝取り側が許可すること、ヒロイン側からの救助の依頼等、事態打開の意思伝達ができる状態でしないことを選んでしまう(選ばざるをえない)こと、このチャンスを寝取られ男性側が認識できないことの三点は“離脱機会”の提示と共通するものと考えています。

④“真実”の開示
 寝取られ作品の様式美の一つ、“寝取られビデオレター”などがこの展開に相当しますが、ヒロインが身も心も寝取り側の男性に簒奪されたことを、寝取られ側の男性に暴露・開示する展開のことであり、ストーリー上もクライマックスを形成しますし、ヒロイン自らの台詞による完堕ち宣言などと合わさってエロシーンの勘所にもなっています。
 前述した“上げて落す”展開の“落す”要素の決定打とも言える作劇要素であって、多くのケースで寝取り側が敢えて寝取られ側に提示することで、前者の“勝利”の愉悦や優位性、後者の“敗者”としての無力感という対比を明瞭にするものと言えます。
 絶望的な事実を突きつけられたことで、作中で常に進展しとうとう決着のついたヒロイン側の精神的変容に後続する形で、そのパートナーの寝取られ側の男性もその精神の変容をさせられることになり、ヒロイン側の精神的変容がじっくりと進むのに対し、寝取られる側の男性のそれは非常にドラスティックに、一気に進行することで、喪失の衝撃の大きさを表現することになります。
 寝取られ事実の開示の結果として、寝取られる側がどう変化してしまうかという描写も重要で、ある意味では寝取り側に取り込まれる形で三者の関係性が持続する場合もありますし(同人誌の作品解説で取り上げた作品としては蛹虎次郎先生の『きゃすとあおい』)、寝取られ側の男性の人間性が砕け散り、更なる惨劇を引き起こす場合もあり(同人誌の作品解説で取り上げた作品としては無望菜志先生の『NTR^2』)、物語の結末に大きく影響を与える作劇要素とも言えます。
  なお、寝取られ作品として非常に重要な要素なのですが、同時に寝取られの事実の開示を寝取られる側に敢えて行わない作品も存在します。近作ですと、夏庵先生の『猥婦アウト』が印象的ですが、妊娠など夫婦関係において重要な事象まで踏み込まれながらも、認識できず、事実からさえ蚊帳の外にされているという描き方は、それはそれとして非常い過酷で、幸福の認識をしながらそこに明示されない不義がパートナーを既に奪っているかもしれないという男性側にとっての恐怖感を呼び起こすものと言えるでしょう。

 その他寝取られ作品において定番の要素はありますし、この個人的なカテゴライズで掬いきれない要素(特に前述した視点の問題はそうです)も多いことは確かですし、寝取られ作品は諸所カテゴライズの難しさとそれ故の定義論争もあるので、語り尽くせないことは多いので、あくまで管理人個人の着目点としてご理解ください。
 この辺りの論考を突き詰められないのが私の弱さというか筆力の不足なのですが、そこらは同人誌の他の参加者の重厚な考察記事を是非読んで頂ければと思います。

ではでは~