
特に御御足でゲシゲシと大鉄君を踏むシーンがもう、何というか、ご褒美ですよご褒美。代われるもんなら是非代わりたいですよ。
さて、本日は司書房様ありがとう企画第14弾として、うめやしきみつよし先生の初単行本『塩化Vinyl様式』(司書房)のへたレビューです。うめやしきみつよし(梅屋敷三慶)先生は単行本『DOGMA666』以降佐原秀和というPNに改名され、現在は他の多くの司出身の作家様方と同じくメディアックス系で活躍されています。
耐えがたい孤独と妄執とが個々の人間が持つ世界を蝕んでいく様を痛々しく描くサイケデリックな作品集だと感じます。

1作・話当りのページ数は全て16Pとボリュームは小さめ。少数の登場人物の精神世界に閉じた話が多いためシナリオの広がりや重厚感は皆無ですが、何とも言えなく寂しい余韻を長く長く残してくれる作品ですよ。
近未来(?)の日本を舞台とするSFファンタジー系の短編「南天獄」のみ多少アッパー系の作風ながら、その他の作品は殺人や自殺・自傷行為など“死”が作品に含まれたり、歪んだ家族関係が描かれたりと凄まじく暗い話ばかりです。
一般的な意味での“救済”が訪れない退廃的で寂寞たる世界の中、ゾッとするほど冷たく厭世的なモノローグをひたすら積み重ねていく手法は独特であり、一つ一つの言葉が読み手の心に違和感や不安定感を植え付けてきます。
管理人は初見時にあまりの痛々しさにのけぞった短編「HIGHLANDER」を筆頭に、出血を伴うような猟奇的なシーンも多いのですが、決してスプラッタそのものを魅せようというタイプではなく、そこに至る精神の異常性・不安定感をこそ描き出すタイプだと感じます。ただ、ファンタジーで希釈された殺傷行為ではないため、その乾いた描写には妙な生々しさがあります。

パラノイドな美意識や哲学が駆動するそれらの倒錯的な性行為はタナトスが色濃く香り立つ極上のエロスを持ちながら、登場人物の性的欲求さえ充足されることの少ないものであり、読み手の性的快楽への欲望をスムーズに満たしてくれるものではあまりありません。また、セックスのエロ漫画的全能性をばっさりそぎ落とした作風であり、彼ら彼女らの肉の交わりは、何も救い得ぬもの、未来と希望を欠いたもの、そして心が通じ合うことのないディスコミュニケーションとしてのものと表現されているのもエロ漫画的な読み方を突き放してくる感じはあります。
個人的な経験から言うと、ボンテージ姿の美人さんの表紙に惹かれて、彼女たちのちょっぴりアブノーマルな痴態を楽しみに単行本を開けたらドン引きというタイプの作品ですよ。勿論今では宝物の一つですが。
近作の絵柄とはベースを同じくしつつもより細くかつ鋭い描線を多用する、悪く言えば神経質な印象のある絵柄は非常に魅力的であり、かつ“異常な”ヒロイン達を描く上のかなりマッチしたタイプ。

時に口に嘲笑を浮かべ、時に怨嗟を瞳に込め、そして時に蠱惑的な微笑みを浮かべるハイティーンクラスのヒロイン達には独特の妖艶さがあります。時々魅せる年齢相応の可愛らしい表情に意外な華があるのも個人的には◎。
スレンダーな体幹に並乳~ギリギリ巨乳クラスのおっぱいが乗ったボディデザインですが、作風からしても(一般的な意味での)セックスアピールが強いタイプではありません。ごく個人的な印象を言えば、陰影の表現を多用することで彼女たちの肌の病的な白さと体の頼りなさが感じ取れて(あくまで感じるだけです)物凄くビザール的なエロティックさがあると思っています。

幻痛に悩まされる少女が自分と援助交際した男性を殺害した時、謎の痛みが消え彼女は“世界の理”を理解します。彼女の新たな生の自覚を朝の眩しい陽光と重ねた画のモチーフの巧さも光ることに加え、おそらく新宿大ガード西の交差点でしょうが、人に溢れるはずの大都会にポツンと彼女一人が配置された構図に今単行本の軸になっている孤独の哀しさが濃縮されているように感じます。
この特殊な作品を考察する上で作品が描かれた1990年代後半の空気を考慮することはおそらく非常に重要です。90年代後半はバブル崩壊後の景気低迷、阪神・淡路大震災、オウム真理教によるテロリズム、神戸連続児童殺傷事件といった数々の衝撃的な事件が、森川嘉一郎氏などが指摘する70年代中ごろの“前衛の敗退・権威の失墜”以降、日本人の拠り所になっていた経済発展・安全神話・宗教権威という共同幻想をことごとく失墜させていった時代です。
神戸連続児童殺傷事件を報道する新聞をコラージュし、神に絶望した神父が“自分用の”偶像を創造する短編「BLAME/STIGMA」、資産家の父を喪い遺産を親族に奪われた少女が凌辱され続ける短編「KYRIE」、性感を享受すること以外に自身の存在価値が分からない実験動物のヒロインが主役の短編「SOFT MACHINE」など、いわば“大きな物語”との断絶の苦しみとその後の受難・意味ある生への渇望は世紀末を目前にして底知れぬ不安に包まれていた時代の空気を色濃く反映しているように感じます。
共同幻想から切り離され、断絶された作中の登場人物達が心中で肥大させた妄執は、殺人に世の理を見出してしまう「BRUTAL TRUTH」のヒロインのそれに代表される様に、禍々しくて理解しがたく映ります。とは言え、おそらく個々の登場人物達の難解な内面を解き明かすこと自体は重要ではなく、もはや分かり合えない人間が現実世界に溢れていることの絶望感およびその不可避性の哀しさこそがこの作品群の底を流れていると僕は考えます。
うめやしき先生は2003年に出版された『DOGMA666』の後書きで「趣味、好みが変わった」「作風が丸くなった」と書き、改名と共にこの尖りまくった作風と決別します。
時代も人も変化していくものなのでそのこと自体は全く気にしていませんが、さてはて2000年代後半になって90年代後半に描かれたこの作品群での断絶したパーソナリティの孤独と悲しみが果たして現在癒されたのかと自問するとちょっと寒々しいものを感じます。
現在のエロ漫画の傾向から言って、まぁ受けがあまりよろしくなさそうなタイプではありますが、90年代後半の負の遺産を何一つ解消できていない現在だからこそ、破滅的に“生の在り方”を模索するこのような作品が世に出るべきなのではと僕は思っています。
こういった怪作が時に出てくるのがエロ漫画の本当に面白い所なんですが、そういったものが極度のサブカル系に移譲してしまい、エロ漫画としてあまり出てこない現在はほんのちょっと寂しいなぁと僕は思うのです。
僕は言うまでもなく、“普通”の明るく楽しいポップなエロ漫画もゴリゴリの凌辱抜き物件も大好きなんですが、司書房様が亡くなったことが、エロ漫画の単調化という潮流の一つだとすると何ともやりきれないものです。
司書房に心よりの愛と感謝を、そして何も助けることが出来なかった懺悔を込めて
へどばん拝