FestivalOfDandelion.jpg一応、エロ漫画レビュアーの真似事をやっているわけですが、レビューというのは面白いもので、シンプルなコンセプトの作品について書くのが時に難しく、複雑な作品について書くことが時にえらく滑らかだったりするものです。
好きな部分もそうでない部分も含めて如何に作品に対して真摯であるかということが、レビュアーとしての僕個人の命題なので、評が難しいということは僕にとって一つの喜びなのかもしれません。

さて本日は、町田ひらく先生の『たんぽぽのまつり』(茜新社)のへたレビューです。本当にレビューが難しい作品だったなと思っています。なお、前単行本『sweet ten diary』(同社刊)のへたレビューもよろしければご参照下さい。
生者の業を紡ぐ鋭く重厚なストーリーと死のエロスに彩られるセックスシーンに心震わされる作品です。

FestivalOfDandelion1.jpg収録作は、少女売春組織の“死ぬまでなんでもやってもいい子”である少女の物語を一つの軸に、少女達と彼女らを犯す大人達を描く長編「たんぽぽの卵」第7話~最終15話(←参照 話の核となる少女 第13話より)。
ストーリーラインは収録作中で一気に形成されるため、今巻から入っても話は理解できますが、第1~6話が収録された『黄泉のマチ』(同社刊)を予め読んでおくことを強くお勧めします。
1話当りのページ数は16~28P(平均20P強)と標準的なボリューム。語りたがりな作風ではないため、表面上の重厚さは決して強くはないのですが、綿密に構築された作品世界の重苦しさは圧倒的であり、強い読み応えのある1冊です。

【読者の陶酔を拒む現実世界の鏡像】
『黄泉のマチ』収録作では、ある少女売春組織に所属する少女達の個々のエピソードをオムニバス形式で描いていたのに対し、今単行本では“死ぬまでなんでもやってもいい子”の少女と彼女を探す一人の男性を作品の一つの核としてストーリーを形成していきます。
少女の性を贄として貪る肉欲の営みは、ストーリーが進むにつれ、少女買春という個の営みから、村の因習、地方の神事、企業および行政と、より大きい共同体システム・社会システムの営みとしての描出に進展していきます。
そこに存在するのは、誰しもが必要とし、誰しもが依存する社会システムが、誰かに痛みを与え、誰かを犠牲することを必要とするという、現実的で普遍的な命題です。作中に登場する少年達が「自分がもし“少女”であったならば・・・」と自問する様に、自らも時に“犠牲”とならなければならない恐怖と、それを他者に委ねる罪悪感が作品の“暗さ”を高めています。
FestivalOfDandelion2.jpgその鋭い筆致は、“この国の有り様”という大きなシステムの中核に至ります。幽明の境を彷徨う少女が見た、“この国”の各所で描かれる数多の歪んだ性愛の後に挿入されるシーンは、静謐で壮烈で図らずも息を呑みます(←参照 何がウルサイのか 最終第15話より)。
様々な共同幻想を背負わざるを得なかった存在が少女に語る言葉は、犠牲となる存在への慰撫であり、破綻を孕みながらも必要なシステムを維持する決意であり、それ故の苦しみの言葉だと僕は考えています。悪の権化でもなく、正義の救済者でもないこの存在からの言葉だからこそ、町田先生が描く架空の国の全ての存在に、痛みを伴う責任を負わせることが可能であったのではないでしょうか。
脆い様で強固なシステムの中、歪んだ性愛を抱えながら日常を生きる者の業を、欲望に翻弄される少女達に宿される生者としての輝きと逞しさを、両者が混じり合う背徳のエロティシズムの甘美さも描かれます。それらは極めて人間的なものとして読み手に映ります。
読者の様々な情念を呑みこむ幽玄の世界は、しかしながら読み手の陶酔を許しません。現実の鏡像として描かれ、この作家特有のリアリズムによって固められた世界は、“鏡”を超えることを拒んでいるように感じます。

【人の異形の“少女像”として在り続ける少女達
その“鏡像”の中核を為すのが、町田ひらくという作家の抱く“理想の少女像”ではないのかと個人的には考えています。
初潮を迎えることで性の狂宴から解放される彼女達は、それ以前は生殖としてのセックスが不可能な存在です。性交は可能でありながら生殖は不可能な“少女”という存在は、タナトスとしてのエロスの担い手であり、読み手の理解を阻むミステリアスな異形としての像を持たされています。
作中における彼女達の存在は、生ける人間であると同時に、“少女”というイメージが純化されたものでもあります。メインヒロインである少女が、やはり国家という共同幻想のイマージュの担い手の類縁であったという設定も、彼女達の像としての在り方を強めているように感じます。
FestivalOfDandelion3.jpgこの作家さんの描く少女は、その怜悧な視線が特徴的であり、その瞳に数多の暗い情念を見出すことが可能です(←参照 第11話より)。しかし、そこに宿る感情は、おそらく少女自身のものではなく、空のイレモノである少女像に読み手自身が重ね合わせたものであると僕は思うのです。
軽蔑も恐怖も諦観も、あるいは快感も、少女性愛者が望み、少女に託した一方的な読み込みであり、ミステリアスで美しい異形達はその心を詳らかにしてはくれない、到達不可能なものとして在り続けます。

【町田ひらくという作家に宿る“空ろ”】
僕個人は町田ひらく先生の作品に共通する意識は、作家自身が構築した世界における自身の理想としての少女像と交わることができないという際限のない渇望だと思っています。
FestivalOfDandelion4.jpg少女性愛者の醜悪な側面に強く踏み込み、少女性愛者を悪として描くスタイルに明らかであるように(←参照 第8話より)、鏡像を描くために観察者である続けなければいけない“恨”が作品の暗闇に漂っています。「ぼくががまんしていることを、やってしまうやつがいることが許せない」というこの作家の発言(永山薫著『エロマンガ・スタディーズ』より)こそが、作品の本質だと思うのです。
“少女像”との結合は現実では決して満たされませんし、まして生者としての少女を代替として満たしてよいものでもありません。
男性の理解を拒み、瑞々しい生のエロスと禁忌としての死のエロスを併せ持つ“少女像”という存在への決して満たされない愛と、その“美しい徒労”故の虚無感と止まぬ渇望が作品には満ちている様に僕は感じます。
今単行本の表紙の骸骨は、タナトスとしてのエロスの象徴でもありながら、死者として現実との鏡面を潜り抜け、自らが描いた“黄泉”の町へと至り、愛する少女像を抱くことが出来た、この作家自身の叶わぬ幸福の姿ではないのかと思うのです。

僕自身にも何とも判別がつかないので、この評を苦渋に満ちた雑言と取るか、屈折した絶賛と取るかは読者諸氏にお任せしたいのですが、客観性を重んじるべきレビュアーとしてこの作品を手放しで絶賛することは、どちらにしてもできません。己の力量の無さを痛感するばかりのレビューで読者諸氏に対しては大変申し訳ありません。
ただ、一人の読者としては、時に愁いを帯び、時に眩しい笑顔を見せる少女達の一つ一つの姿と、作中に漂う静謐で狂おしい愛と憎に強く心を揺さぶられた1冊でした。この先も、この作品を思いだす度に溜息を洩らすのだろうなぁと思います。