まだレビューが書けていない新刊が残っているのですが、本日は時々やっている作家様特集の記事を書こうと思います。
前回のゴージャス宝田先生の記事はご好評を頂けたようなので一ファンとして嬉しかったです。
今回は、「凌辱の帝王」という異名も持つオイスター先生について書こうと思います。苦手な方も多いのかもしれませんが、僕は本当に大好きな先生なのです。

オイスター先生はこれまで10冊の単行本を出されており、現在は主に一水社系で活躍されています。9冊目『悪徳乃榮』10冊目『生贄と牢獄』(共に一水社)はそれぞれ個別にレビューを書いていますのでよろしければご参照下さい。
4冊目『少女地獄Ⅲ』(一水社)に収録されたファン必見のデビュー作「るるかマジカルアワー」こそ、ふたなり魔法少女が大活躍♪なコミカル系でしたが、1冊目の『少女地獄』(一水社)の時から激烈な鬼畜凌辱劇を描き続けておられます。
時に人妻や20代半ば程度の女性を対象とすることもありますが、“少女”地獄という単行本シリーズを持つだけあって、ミドル~ハイティーンの少女に対する凌辱が多く描かれています。
WorksOfOyster1.jpgヒロインの精神と肉体を無慈悲に蹂躙する攻撃性、読後に読み手を襲う絶望感は業界屈指の水準にあると言ってよいでしょう(←参照 『少女地獄Ⅲ』(一水社)収録作 短編「蝶よ花よ」より)。




長編作の構成力の獲得という意味でも重要な位置づけにある3冊目『少女地獄Ⅱ』(一水社)以降、特にオイスター先生の作品で重要性を増すのが、美徳の全能性の拒絶です。
多くの作品において、登場するヒロインはその友情、恋心、理性を徹底的に踏みにじられ、酷い場合には自らの手でその美しいモノを破壊させられます。
『少女地獄Ⅱ』に収録された短編「友情」は、不良グループに捕えられた二人の少女への壮絶な集団凌辱を描く作品ですが、幼い頃からの大切な親友である2人の少女は互いをかばい合い、自分の身を犠牲にして親友を救おうとします。
WorksOfOyster2.jpgその二人の間に流れる純粋な友情、崇高な自己犠牲の精神は非常に尊いものとして読み手に映りますが、親友への凄惨な凌辱の結果を見せられ、少女のその美しい決意は無慈悲にへし折られます(←参照 親友を足蹴に 短編「友情」より)。
自らの“保身”のために親友への“裏切り”を行った少女の姿は、非常に醜悪で哀れで悲しくて、そして極めて人間的です。
この短編も含めオイスター先生の作品では、美徳として信奉するものの脆弱性は冷徹なまでに現実的であり、単なるファンタジーの枠を超えたその生々しさが読み手の胸を抉ります。

これら美徳の中で、オイスター先生の作品においてしばしば非常に重要な役割を担うのが家族という要素です。家族愛という素晴らしい人間の尊厳に対しても微塵も容赦はありません。
実の父に惨い性的調教を受け続け、そのことに女として嫉妬する母親にさらに虐待される少女を描くWorksOfOyster3.jpg中編「隣りの花」において、少女は崩壊しそうな精神をマンションの隣の部屋から聞こえてくる幸福そうな家族の声を聞くことで保たせています(←参照 後ろは母親 『少女地獄Ⅳ』収録作)。
その歪みまくった“家族”の姿そのものも悲惨の一言ですが、さらに読み手を絶望のどん底に突き落とすのは、一コマでごくあっさりと示される、彼女の部屋が“角部屋”だという事実です。
自身を見捨てた家族への少女の変わらぬ愛があまりに悲しい屈指の傑作長編「暗澹」(『悪徳乃榮』収録作)、狂人の親子に“母親”としてさらわれた女性の実の娘への想いが胸を締め付ける短編「DOLLHOUSE」(『精液中毒』(一水社)収録作)、弟を守るための奮闘が圧倒的な暴力によって無為にされる中編「黒帯」(『少女対組織暴力』(日本出版社)収録作)など、幸福な家族像が崩壊する様子は非常に痛切でありながら、読み手に目を逸らすことを許さない圧倒的な凄味を帯びています。
cfb8fbc1.jpgこれらの作品群においても、その家族愛の美しさは単なる“落差”の演出以上に崇高に描かれており、それ故一層の絶望感を生み出しています(←参照 自分を“売った”母への変わらぬ愛 長編「暗澹」第3話より)。

また、激烈な凌辱を行う男性に、必ずしも獣欲の充足という目的が認められないことも作品の狂気性を増しています。
ad01cd89.jpgWorksOfOyster6.jpg金銭のために圧倒的な暴力で登場人物達を地獄におとす暴力団員(←参照 左 『外道』(日本出版社)収録作 短編「明るい未来」より)、常人には理解の出来ない思考によって少女を一方的に蹂躙する狂人達(←参照 右 『生贄と牢獄』収録作 短編「先住者」より)は、大変理不尽な存在として描かれますが、その存在は実のところ現実的なものです。
悪逆の限りを尽くす彼ら凌辱者の存在は、倫理、理性、社会の安寧といった美徳の、意外なまでの脆弱性そのものを体現した存在であり、美徳の全能性を盲目の内に信じる我々が一方的な偏見を投げかけ、忘却の彼方に追いやろうとする存在です。
その無視しようとしていた存在が、悪徳の刃を存分に振るい、信奉される美徳を粉微塵に粉砕することで、読み手は本来は身近に存在している“悪徳”の強大さと全能性を信じていた“美徳”の脆さを眼前に突き付けられます。
その意味において、オイスター先生の作品は、美徳に保護されているはずの我々の日常が、人間自身の悪徳によって容易に崩壊することを示すホラーとしての側面を持っていると思います。
短編「啓示」のラストのヒロインのモノローグの通り、美徳という名の全能の神もその裏に隠された地獄も人間の創造物なのです。

ハードな凌辱エロ(と大馬鹿ギャグ)を得意とする巫代凪遠先生は『聖マルガレタ学園』(フランス書院)の後書きにおいて、凌辱エロの明確な役割とは多くの人が持つ攻撃的な性欲の受け皿となる“人権無き虚構”であることだと真摯に書かれています。
オイスター先生の作品における美徳の信仰への拒絶は、単なる人権・人格の否定を超えた苛烈さを持ちながら、それでいてあわじひめじ先生や初期のもりしげ先生の作品の様な挑発性を持たず、非常に静謐であり、そして綺麗事ではない“人間性”への尊敬を持ち合わせています。
樹海で自殺しようとする女性が森に住む狂人に捕獲され性奴にされる短編「罔両」が示すように、甘美な死という幻想すらヒロインたちには許されません。
a1aba11e.jpgその絶望的な、正に地獄の中で示される純粋な家族愛や友情は上述の様に単なる不幸のスパイスではなく、真に人間の尊厳として描かれ、それらを信奉し続ける少女達も“人間として”やはり美しく描かれます(←参照 監禁凌辱される少女の弱者への愛 『外道』収録作 短編「花弁」より)。
人間の尊厳の崇高さは悪徳の凶悪なまでの力強さに屈しながら、“敗北”する“美徳”は物語によって“勝利”を約束された美辞麗句としての“美徳”の何倍も美しく、人間的であり、欲望と憎悪と性欲が混ざり合う泥濘に塗れながらも燦然と輝きを放ち続けます。
悪徳の惨禍とそれへの絶望が吹き荒ぶ極北の地から、人間の正気と狂気、悪徳と美徳を静謐な激情を以て見つめ続ける、甘えを許さないヒューマニズムこそがオイスター先生の持ち味だと僕は思うのです。

その叶わぬ救済を求める慟哭にも似た激情が宿る作劇は、踏み絵を踏みながら、“沈黙”を守り続ける神の全能性に絶望することのなかった『沈黙』(遠藤周作著)のロドリゴ神父を想起させます。
約8年間の作家としてのキャリアの中、この身を切るような絶望を備える悲劇を描き続けた精神力の強さは想像を絶するものがあります。
1冊目『少女地獄』のあとがきにおいて、オイスター先生は「きっとこれからもこの罪悪感と闘いながら非道い話を描いていくのでしょう」と書かれています。
節目の10冊目である『生贄と牢獄』のあとがきに描かれた、空ろな目から涙をこぼしながら彷徨う少女に凌辱エロ作家として苦しみながらも歩み続ける作家自身の姿を重ねるのは僕だけではないと思うのです。
僕のオイスター先生に対する感情は、作家として好きという以上に、その壮烈なヒューマニズムに対する畏敬の念に近いと言ってよいでしょう。
決して安易にお勧めできる作品群ではないですが、極めて強い作家性を持った先生ですので覚悟と分別を備える漫画好きには是非一読して、それから好き嫌いの判断をして頂きたいなぁと思うのです。

少なくとも管理人はオイスター先生の作品に出合えて本当に幸せでしたし、勿論、これからも強く期待しています。
その愛着がこの記事からちょっとだけでも伝われば嬉しく思います。

一エロ漫画愛好家にしてオイちゃん先生の大ファンな
へどばん拝