どうも管理人のへどばんです。今年に入りましてから、早3ヶ月が経とうというのに、単行本レビューだけしか書いておりませんでした。
無論、それはこのブログの基幹ではあるのですが、前回の作家評カテゴリである乙先生特集から1年近く経過しており、流石にここらで新たな作家評を書きたいなと思いました。
ということで、今回は雨部ヨシキ先生の特集とさせて頂きます。なお、先生の最新単行本『ねっ!あったまろ?』(ヒット出版社)のへたレビューもよろしければ併せてご参照下さい。

ArtOfUbe1.jpgArtOfUbe2.jpg雨部ヨシキ先生はヒット出版社のコミック阿吽で活躍されている作家さんであり、既刊5冊はいずれも同社のセラフィンコミックスレーベルから出版されています。
コミック阿吽は、例えばSF(すこしふしぎ)的な要素を加えた、漫画チックな作劇で楽しさを生み出す作品も多い一方で、王道ラブコメ的なストレートに明るいタイプから繊細な感情描写で魅せるタイプまで様々な日常劇も主力の一つとなっています。
このカテゴライズにおいて、雨部先生の作風は完全に後者であり、コミカルさと感情描写の心地よさが両立された日常劇を描き続けている作家さんと言えます。

しばしば、主人公の少年・青年より年上で成人しているお姉さんキャラや、少女と交際している男性教師など、“大人”である登場人物も登場しますが、この日常劇の中で描かれるのは思春期後半の少年少女の恋愛模様です。
ArtOfYoshikiUbe1.jpg作劇面において、ヒロインのキャラ性をその魅力の核とするスタイルは、王道的なラブコメディ系と同等であり、素直になれないツンデレさん(←参照 王道! 短編「乙女心と夏の蒼天」, 『敏感どろっぷす』p73, ヒット出版社, 2006)や天真爛漫なアホ娘、暴走ガールにクーデレさんといったある程度キャッチーなキャラ属性が添加されたヒロイン造形が目立つのは確かでしょう。
とは言え、漫画的なキャラクターのカリカチュアライズはあまり強くないタイプではなく、いわゆる“普通の”少女”、“普通の”少年として描かれている印象が強くあります。
比較的等身高めで、すらっとしなやかな肢体を写実寄りに描く絵柄も、この普通っぽさの印象を高めている感があり、女体の肉感的なエロスを追求するタイプではありません。
ArtOfYoshikiUbe2.jpg無論、そのハイティーンらしい成熟一歩手前の健康的な色香の豊潤さ(←参照 短編「チア❤ハート❤アタック」, 『ねっ!あったまろ?』p21, 同社, 2011)、そして強弱の入り乱れるアナログ作画が生み出すしっとりとした煽情性がエロシーンの魅力を高めているのは間違いない美点ですよ。

さて、話を作劇面に戻しますが、この少年少女のラブ・アフェアの描写において、さしたるドラマ性は認められず、かなり大雑把に言ってしまうと、登場人物達のとぼけた会話とエロシーン、そして恋愛成就のハッピーエンドによってシナリオは形成されています。
一貫して日常劇を描いており、またラスト1コマを必ず小ゴマを用いた微笑ましい描写かギャフンオチでまとめる定番の構成など、このスタイルはかなり強固に維持されていると評せます。
しかしながら、雨部先生の作品に、“単調さ”を全く感じないのは、上述した一見素っ頓狂な台詞回しが、登場人物達にとっては非常に重要な意味を有しており、また何処かすれ違っている様で、ちゃんと意思疎通が図られている故に、二人の恋の幸福が形作られてゆくという流れがしっかりと紡ぎだされているからと考えます。
c86ee33b.jpg作中に登場する男女は、結構“理屈っぽい”部分があり、恋人同士であれ血縁関係であれ、また友人同士であれ、男女の関係に関して彼らなりに有する倫理観や整合性を会話の中で相手に伝えようとしています(←参照 彼女さんを諭す男性 短編「うぉんちゅ」,『だってらぶなの!』p111, ヒット出版社, 2009)。
実は、エロ漫画的なベタな棚ボタ展開を示す作劇も雨部先生の作品には少数存在し、幼少時のテキトーな約束を信じてそれぞれ婦警・看護婦・スチュアーデスとなった女性3人が同時に押し掛けてくる中編「Seasons」や、告白しようとする女の子が自分にリボンをかけて箱に入ってセルフプレゼントな短編「シュガースパイスちょこれーと」(『恋蜜あそーと』収録作)などは、その好例でしょう。
とは言え、そのコッテコテの冒頭展開の勢いを借りてエロへと進むのではなく、これらの作品ですら主人公の男性とヒロインは、なんでそのような状況になったのか、これからどうするのかとった点に関して質疑を繰り返して、一般的に正常な状況へ事態を回復させようと努力します。

03ded701.jpgこの会話の中で形成されていく同意とは何なのかということを考えるにおいて、恋愛の渦中にある登場人物達、特にヒロイン側が他の少女と各種の相談をすることが多いというのは注目すべき点であると個人的に考えています(←参照 短編「シュガースパイスちょこれーと」, 『恋蜜あそーと』p5, 同社, 2005)。
雨部先生の作品において登場頻度が圧倒的に高い、思春期後半の少女達は、恋愛にしろ、セックスにしろ、日常生活の中で(実地での経験はともかく)同年代の同性との会話の中でそれらに関する知識を獲得しており、彼ら彼女らなりに恋愛やセックスの“在るべき姿”を抱いています。
それは倫理観でもあり、また時に身勝手な理想でもあり、世間の常識に対する依存でもあるのですが、作中においてはそれらの“在るべき姿”は登場人物間でズレが生じており、男女いずれかが“ズレ”ている時もあれば、二人とも変な方向へとフラフラ彷徨っている時もあります。
081bd9b2.jpg例えば、デートはお洒落なスポットに行かなければ、エッチはこれこれこういゆう段階を踏んでから、“男らしさ”を発揮してが女性をリードしてあげたい(←参照 短編「テディベア」, 『春色さぷりめんと』p192, 同社, 2008)、自身が性体験が初めてなので相手も初体験であって欲しい、教師と生徒・姉と弟はこういった関係でなかればならない、などといった登場人物達がそれぞれのロジックで有する恋愛における数多の理想・倫理を描き出し、上述した会話を重ねていくことで男女間の、そして同時に二人と世間一般とのズレを認識させていきます。
そして、何より、認識されたその“ズレ”が男女の恋愛感情によって肯定され、抱いていた理想と違っていても彼ら彼女らの恋愛の在り様は何ら“間違ったこと”ではないのだという安堵が作品を非常に心地よいものにしていると僕は思うのです。

上述した様に、標準的なラブコメ要素を含む作風である故に、読み手側もまた一般的な恋愛ストーリーにおける幸福感を期待し易い様に特に作品の序盤は構築されていると感じます。
さりながら、我々読者が期待する“理想化された恋愛の幸福”は、むしろ登場人物達がそこからズレに対して悩み、そしてむしろズレていても良いのだと噛みしめるものであり、結果としてその“理想”を求める読者に、「貴方は貴方のままでいいんだよ」という肯定感を与えてくれると感じるのです。
僕はこれまでの考察記事でも触れてきましたが、恋愛系のエロ漫画作品において、互いの肌や性器を晒し合い、体を接触させる性行為は、肉体と同時に精神を重ね合わせるという全能的なコミュニケーションの理想を象徴する役割を担っています。相手を感じる・相手を受け入れるという行為は肉体的なものだけではなく、その行為に託された感情の伝達をも願うものです。
そして、雨部先生の描くセックスにおいては、読者の興奮を高めるアタックの強い台詞回しを多用しつつも、シナリオパートと同様に互いの認識のズレを埋めていこうとする意志が台詞によって明確に示されています。
cf3557ee.jpg上述した肢体に宿る独特の色香や、雰囲気を殺さない程度にアグレッシブなエロ演出もあって、“使える”エロシーンになっていると同時に、恋愛描写とよく噛み合った性描写であって(←参照 短編「ふたりのせおりぃ」, 『春色さぷりめんと』p25)、登場人物達、そして上述した様に読み手それぞれの在り方を温かく認め合う魅力を大きく高めていると言えるでしょう。

日常劇・普通の少女・等身大の恋愛ストーリーというのは、コテコテの属性やテンプレ展開等との対比として(僕を含めた)評者は安易に使いがちなのですが、それ自体がもはや一種の属性であり、テンプレであることは否めないでしょう。
しかしながら、雨部ヨシキ先生の作品は、そのテンプレとしての日常から一歩外にあること自体がごく当たり前の、個々人にとっての日常なのだという語り回しになっている故に、在り来たりな印象が綺麗に払拭されていると評しえます。
2011年3月現在、我々の“日常”は大きな変化を迎えてしまいました。人によって程度は様々ではありますが、その“落差”は恋愛におけるズレの苦しさよりも何倍も辛いものでしょう。
それでもなお、貴方が今過ごしている日常は尊いものです。
雨部ヨシキ先生の作品のラストが必ず迎える慎ましやかで微笑ましい幸福が、いずれ全ての人に訪れることを祈りまして、今回の記事の筆を置かせて頂きます。

雨部ヨシキ先生とそのファンに愛と敬意を込めて
一エロ漫画愛好家 へどばん拝